葛尾大尽物語の背景

 藤原氏の流れを汲み、信州葛尾城主だったと伝えられる松本勘ヶ由介の孫、松本好倉が初代の松本三九郎と目されますが、生糸や製鉄業などで巨大な富を築き、「葛尾大尽」と呼ばれるようになりました。


 最盛期の江戸時代中頃には、近隣の三春藩を始め、相馬藩や棚倉藩に大金を献上すると同時に、多額の金を貸し付け、藩財政の一部に介入し、山林伐採・酒造米買い入れ・塩などの商売の独占権を得ていたと言われています。


 およそ200年にわたり栄華を誇りましたが、商売の中心だった製鉄業の不振に伴い、衰退の一途をたどり明治時代に没落。明治4年・明治8年の火災で、豪壮を極めた建物の大半を焼失しました。


 屋敷跡として石垣や庭園が残っていましたが、平成18年の発掘調査により、48棟あったと伝えられる蔵の基礎石や、近江八景庭園跡の全体が発見され、葛尾大尽屋敷跡公園として公開されています。


 




葛尾大尽屋敷跡平面図


 (平成18年5〜6月、庭園跡・蔵跡の発掘調査から)


   


 


 


蔵の基礎石


 発掘調査により発見された、大小48の土蔵跡とみられる建物の基礎石。表面は滑らかに美しく、隠れてしまう裏側は荒々しくと、一心不乱にノミをふるったと考えられ、当時の石工の息遣いが聞こえてきそうな刻みがそのままに残されています。


 


 




 また、土台の上面にある四角い刻みは、柱を建てる箇所であり、材料の大きさや間隔から、当時の建築や土木の技術も推測される貴重なものです。

出入口に当たる部分には、一部に鉄も部材として使われており、製鉄業や生糸商で巨大な富を築いたとの言い伝えが、実証されることの一つです。


 


 


 


 


近江八景庭園跡


 


  江戸時代に流行した庭園、近江八景を模したと伝えられています。一部しか見えなかった池が発掘調査により、中央に中島を持つ本格的なものであった全貌が見えてきました。


 


 


 


 池のそばには、茶道と関係する灯篭や飛び石・手水鉢などがあり、風雅を好んだとされる当主代々の趣向によるものなのか、あるいは京都から嫁いだ妻を労わり、慰めるものだったのでしょうか。


 


 


  


   


  ★近江八景とは


   近江八景は,琵琶湖南部のすぐれた八ヶ所の景色で,室町時代に選ばれました。


 


 比良の暮雪(ひらのぼせつ)

 堅田の落雁(かたたのらくがん)

 唐崎の夜雨(からさきのやう)

 三井の晩鐘(みいのばんしょう)

 矢橋の帰帆(やばせのきはん)

 粟津の晴嵐(あわづのせいらん)

 瀬田の夕照(せたのせきしょう)

 石山の秋月(いしやまのしゅうげつ)


 


 


 


 


 


 



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